かいつまんで読む『罪と罰』 第1回(全6回予定)
 
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    ★7月7日

     7月初旬のこと、めちゃくちゃに暑いある日の夕方、ひとりの青年が、S横町にある又借り中の部屋から往来へ出ると、なんとなく重い足取りでK橋の方へと歩き出した。
     彼は、階段の途中で又借りの主のおかみさんと遭遇するという危険をうまく避けることができた。彼の小さな部屋は5階建てのアパートメントのてっぺんの部屋の、さらに上の屋根裏にあって、住まいと言うよりはむしろクローゼットに近いようなしろものだった。彼が、簡単な身の回りの世話と食事付きで借りていたその部屋の貸し主のおかみさんは、すぐ下の5階に住んでいたので、外へ出ようとするそのたびに、彼はどうしてもおかみさんの部屋の台所脇を通り抜けないといけなかった。そこにはドアもあったのだが、そのドアはいつもたいてい開け放しになっていたのである。青年は、そこを通るたびにきまって、なにか病的な、うしろめたい気持ちになるのだった。彼は、そんな自分を恥ずかしく思い、眉をしかめるしかなかった。下宿代が何ヶ月分もたまっていたものだから、彼女と顔を合わせるのが怖かったのだ。
     と言っても、彼がもともと臆病でいじけた性格だったわけじゃあない。むしろその反対と言っていいくらいだった。だがいつの頃からか彼は、鬱症状に似た、いらいらとした気分に支配されていた。彼は近頃ではすっかりひきこもり、孤独な生活を送っていた。下宿のおかみさんだけでなく、誰とでも顔を合わせるのが怖かったのである。彼は貧乏にうちひしがれていた。

    ラスコーリニコフは、優秀な大学生だった。その頭脳の優秀さについては周りからもイチモク置かれている。お金がないのもあるし、低級な会話ばかりの愛想付き合いもしたくないというので、友達と呼べるような者はほとんどいないけど。暮らすのは、ロシアの首都ペテルブルクの5階建てのアパートメント。物置どころかクローゼットに毛の生えた程度のその部屋は、それでも彼にとっては楽園で、勉強するのと寝るのとだけなら何の文句もなかった。田舎を離れて大都会にやってきた彼の大志の前には部屋の狭さなど関係なかった。実際、ラスコーリニコフはその楽園で猛烈に勉強していた。…。最初のうちは…。
     やがて学費に困って肝心の学校にも行けなくなり、それどころか食うにも困るようになり、めったに外出さえしなくなっていた。そんな彼が久しぶりに外出した。今やボロ布と変わり果てたコートと帽子を身にまとって…。そんなある日からこの物語は始まる。
    「1ルーブル半だって!」とラスコーリニコフは思わず大声を張り上げた。
    「いやならよそへ行っとくれ」と、老婆は時計を返してよこした。ラスコーリニコフは激高して一瞬、それをそのまま受け取って帰ろうとしかけた。だが他に行くあてはないし、そもそもここにやって来た目的が別にあったことを思い出して、その場に踏みとどまった。
    「貸してもらおう!」彼はぶっきらぼうに言った。
     老婆はポケットに手を入れて鍵束を出すと、カーテンの向こうの部屋に姿を消した。ラスコーリニコフは、このときとばかり聴き耳をたてた。物音から老婆の動きを思い描く。タンスを開ける音が聞こえる。『きっと上の引き出しだ』と、彼は見当をつけた。『鍵は右のポケット…。みんなひと束にして、鋼鉄の輪に通して…。一番大きなギザギザの鍵は、たぶんあれはもちろんタンスの鍵じゃない。ほかに何か、金箱か何かあるんだな。そうした箱にはたいていあんな鍵がついているもんだ。だが、それにしても、なんというあさましい想像をするんだ、ボクは…』
     老婆が戻って来る。
    「いいですかな、あんた、1ルーブル半なら利子は月に15コペイカになりますからね。1ヶ月分先にもらいますよ。それから前に貸した2ルーブルの利子が20コペイカ。これも差し引きますからね。つまり、全部で35コペイカ。だからその時計であんたの手元に行くのは1ルーブルと15コペイカということになりますからね。さあ受け取ってくださいな」
    「たった1ルーブル15コペイカ!?」
    「ええ、そのとおりですよ」
     彼は特に争うでもなくその金を受け取った。彼はじっと老婆の顔を見つめたままで帰ろうとはしなかった。何か言いたいことでもあるのか、したいことでもあるのか。でもなぜそんな態度に出たのか彼にも実はよくわからなかった。
    「ことによるとねえ、イワーノヴナさん。2、3日うちに、またひと品持ってこれるかもしれません。…銀の……すばらしい…タバコ入れなんですがね。…友達のところから戻ってくることになってるんでそしたらすぐに…」彼はどぎまぎして口ごもった。
    「そりゃあそのときまた相談に乗りますよ、あんた」
    「じゃあ、さようなら。…。それはそうと、今日はおひとりですか…、妹さんはお留守で?」
    「あの子に何か用でもあるのかい、あんた?」
    「いや、別に何も。ちょっと聞いてみただけですよ。あなたはすぐそれだから…。じゃあ、さようなら、イワーノヴナさん」
     ラスコーリニコフはまったくしどろもどろのまま部屋を出た。部屋を出てから後も頭の混乱はおさまらない。階段を下りながら、突然胸のあたりが苦しくなって何度か立ち止まったほど。やっとのことで往来に出ると、彼は思わず口に出した。
    「なんて情けない! 何もかもなんて美しくないことだろう! 本当に、本当にボクときたら…。愚かすぎるだろう、これじゃあ。…。ありえない!」彼はきっぱりした調子で付け加えた。「よくもまああんなに恐ろしい考えがボクの頭に浮かんだものだ。なんてけがらわしいことを思いつくんだ。実にけがらわしい、卑劣なことじゃないか。醜悪だ。醜悪すぎる!」

     ラスコーリニコフには、今日までひと月もの間ずっと考え続けてきたことがあった。実は今日はそれを試しに来たのだった。確認しに来たのだ。自分にそれができるかどうか。そして実際に決行するときの下見のために。

     自分の行動への嫌悪感からラスコーリニコフはよろめきながら道を行く。ときに人にぶつかりながら、それを気にもせず。やがて我に返ったとき、彼は薄暗く汚らしい酒場にいた。めまいがする。ノドがカラカラだ。ビールを少しとぱさつくパンをひとかじり。急に頭が冴えてくる。さっきまでのオドオドした気分は何だったのか。
    「なんてバカらしいことだ。何をうろたえてるんだ、おまえは! …。なあに、ちょっと疲れてただけだ。その証拠にたったビール1杯で、パンをひときれかじっただけで、これこのとおり、頭が冴えてくるじゃないか。意識はハッキリしてくるし、考えはしっかりしたものになってくるじゃないか! …。ちくしょう、最初から最後まで情けないことばかり繰り返して…」つばでも吐きかけたくなるほど軽蔑しきったような気持ちでつぶやいているうちに、ふと、急に肩の荷を降ろしたかのような浮き浮きした瞬間というのもやってくる。居合わせた人たちを見回してみる。だがその瞬間にも、彼は心の奥底でかすかに、こんなふうに物事をいい方に取ろうとする考え方自体が既に病的なのだと感じていた。
    恐ろしい考えを心の奥にしまいこみつつあったラスコーリニコフは、この酒場でひとりの男と出会う。この店の常連らしいが、店主や居合わせた客にとっては軽蔑すべき対象であるようだ。男がひとりブツブツ言うのを、周りの客はバカにして笑っている。普段なら決して接するような相手ではないが、この日のラスコーリニコフにとってはなぜか興味をひかれる存在だった。運命の出会いのような直感があった。
     男は元官吏のマルメラードフ。ボロ布のようになった燕尾服を着る男。典型的なアル中だが、ラスコーリニコフはこの男の目の中に、知性とかすかな狂気を感じる。
    「ねえ学生さん」と男は礼儀正しい様子で話し始めた。「貧乏は罪にあらずと言いますが、これは真理ですな。深酒がよくない行いであることも心得ておりますよ。これまた真理。しかし貧乏も…、貧乏も行き着くところまで行ってしまうともうこれは…、これはもう罪悪ですな。普通くらいの貧乏だとまだ、持って生まれた精神の高潔さとでもいうものを保っていられますが、悪化しすぎると、誰だってそうはいきませんよ。貧乏がこじれると、店から棒でたたき出されるどころではすみませんで、人間社会というものからホーキで掃き出されることになるんです。これでもかというぐらいにね。しかしそれも当然の話でして、貧乏の底まで落ち込むと、社会からどうこうという以前に、一番自分を軽蔑するのは、誰あろう当の本人に他ならない! そこでまあ酒、ということになるんですよ。ところで学生さん、ひと月ばかり前のことですが、私の家内はレジャートニコフ氏にさんざんに殴られました。家内は私などとは比べものにならないくらい立派な人間なんですぞ! わかりますか! ところでもうひとつおたずねしますが、なに深い意味はないんですがね…、あなたはニェヴァ河の干草船にお泊まりになったことがおありですかな?」
    「…。いえ、まだありませんが…。いったいそれは何のことです?」
    「つまりの話が、私はそこからやって来たんですよ。しかももう5日も泊まってまして…」
     ラスコーリニコフは酒をまた1杯ついでぐいっと飲みほすと、黙り込んでしまった。なるほど、彼の服や髪には干草があちこちこびりついていた。5日の間、着替えもしなければ顔さえも洗わずにいたらしい。ことに汚れているのは脂ぎった赤い手だ。爪なんか真っ黒じゃないか。
     男の話には面白みがありそうにもなかったが、そこにいたみんなの注意は惹いたようだ。カウンターの向こうにいたボーイたちがくすくす笑い出す。
    (中略)
    「どうして勤めに出ないのか、私は…。ねえ、どうしてでしょうねえ、学生さん」と、マルメラードフは、まるでラスコーリニコフから質問を受けたかのように話し始めた。「どうして勤めに出ないかというんですな? するとこうして私が何もしないでのたくってることを、まるで気に病んでいないとでもおっしゃっているのですかな? そりゃあ私は、レベジャートニコフ氏が、ひと月ほど前に、私の家内をなぐったときにも、酔っ払って寝ておりましたよ。しかし私が家内のことで苦しまなかったとでもおっしゃいますかね? 失礼ですが、学生さん、あなたはこんな経験がおありですかな? 何ですかその…、早い話が…、見込みのない借金をしようとしたというような経験が?」
    「たぶんありますね。…。しかし見込みがないというのは?」
    「つまり、どうにもこうにもあれですよ、はじめからどうせダメだってことがわかっているんですよ。たとえばの話が、借りに行った先の男が、いたって善良で社会的にまっとうな男が、どんなことがあっても金なんか貸しっこないと前もってあなたはわかっているとしましょう。じゃあ、なんでその男が金なんぞ貸しますかね? なにしろ先方じゃあ、こっちが返さないなんてことは先刻ご承知なんですからね。だが、同情心から貸してくれることもあるんじゃないか、とお思いですかな? しかし新思想を追いかけているレベジャートニコフ氏などは、ありがたくもこう教えてくれましたよ。今日では同情なんてものは学問上でも禁じられていて、経済学の発達したイギリスではそれを実践してるんですとさ。それが本当なら、まったくの話が、貸してくれっこありませんわな。ところがです、相手が貸してくれないことは最初から百も承知で、それでもこっちはやっぱりのこのこと出かけていくわけです。それで…」
    「何のために出かけていくんです?」ラスコーリニコフは思わず口をはさんだ。
    「そうは言っても、誰のところへも、ほかにどこにも行くあてがないとしたらしかたがないじゃないですか! だってどんな人間にだって、どっか行くだけでも行けるところがなくっちゃあどうにもならんじゃないですか。どうしてもとにかく、格好だけでも行けるところがないことにはどうにもならん、そんな場合がけっこうあるんですよ。現に私のひとり娘がはじめて例の黄色いカードを持って出かけたときも、私もやっぱり外へ出かけたんですよ…。…実のところ、私の娘は例の黄色いカードで食っていましてね。…」最後は少し小さな声になって、彼は、ラスコーリニコフの顔色を伺うように見つめながら付け加えた。「いや、なんでもありませんよ、学生さん! なんでもないんです!」彼は、カウンターの向こうで2人のボーイがぷっと吹き出し、主人までがにやりと笑ったのを見ると、あわてて、だが冷静さをとりつくろいながら、すぐにこう言いきった。「なんでもありませんとも! あんなふうにバカにされたとしても、どきまぎするようなことはありませんや。どうせ何もかも皆に知れわたっているんですからね。秘密はすっかりばれちまってるんですから。気にしたって仕方がない。むしろへりくだった気持ちで受け入れることにしているんですよ。ご勝手に、どうとでもご勝手に! 『この人を見よ!』ですよ。ときに失礼ながら、あなたにはおできになりますかな? いやいやそうじゃない、もっと適切な表現を使うならば、おできになりますかな、ではなく、その勇気がおありになりますかな? 今、この私の顔を見据えて、私が豚じゃないとはっきり言いきるだけの勇気が?」
     ラスコーリニコフには答える言葉がなかった。
    「さて…」またしても部屋の中に起こった嘲笑が静まるのを待って、マルメラードフは重々しく、威厳さえも漂わせて、言葉を続けた。「そのとおり、私は豚ですとも。豚とさげすまれていっこうにかまわないが、しかしあれは立派な女性ですぞ! 私はけだものかもしれないが、カテリーナは…、私の家内は、上級軍人の娘に生まれた、教養あふれる女性です。私はやくざ者でけっこう、すこしも差支えなんかありゃあしない。しかしあれは、気高い精神と、教育のある立派な女性なんです。それにしても…。ああ、あれがもう少し私に同情をもってくれたらなあ! 学生さん、どんな人間にだってせめて1ヶ所くらいは、ねぇ学生さん、人並みにいたわってもらえるところがなくちゃやりきれないじゃありませんか! しかしねえ、カテリーナときたら、寛大な心を持っていながら、どうもキツイところがありまして…。そりゃああれが私の髪の毛をつかんで引きずり回すのは、この私を哀れに思っているからこそのことだとは私も重々承知しておりますがね…」
    (中略)
    「で、今はリッペヴェフゼルさんのお宅の片隅を借りて住んでおるわけですが、うちの家族がいったい何で暮らしを立てているやら、どうやって支払いを済ませているやら、私にはまったくもってわからんしまつでした…。そこには私どもの他にもまだたくさん住んでる人がおりますがね…。まったく、ソドムのようにひどい有様ですよ。ふむ…、そのとおりですとも。そうこうしているうちに、先の家内との間にできた娘が年頃になってまいりました。その娘が、それまで継母からどんな仕打ちを受けてきたかなんていうことについては、まあ何も言いますまい。カテリーナは、ほんとのところは実に優しい女性なんですがね、どうもすぐカッとなるところがありまして、ちょっとしたことですぐ爆発するわけですな…。しかしまあ、そんなことは今さら言ってもしかたのないことでして。そこでまあご想像どおり、教育というものをソーニャは受けておりませんのです。4年ほど前になりますか、あれを相手に私は地理と歴史を教えてやろうと思ったんですが、あいにくそっちは私があんまり得意でないところへもってきて、教科書になるような適当な本も見あたらなかったもんですからね…。なにしろ手元にあった本といえば…。そうですよ、その役に立ちもしなかった本だって今じゃあ一冊も手元に残ってやしない! …。そんなわけで、せっかくの勉強もそれでおしまいになってしまったんです。ペルシャ王サイラスまでは教えたんですがね。大人になってからは、小説風のものを何冊かは読みましたかな。それとつい最近、レベジャートニコフ氏から、『リュイスの生理学』って本を、----ご存じでしょう?---- 貸してもらって、大変面白いと言って読んでおりましたよ。ところどころ声に出して読んで聞かせてくれたりしましてね。以上が、娘の学問の全て、そういうわけです。さてそこで学生さん、あなたにひとつ質問させていただきたいのですがねぇ、貧しい、純潔な娘が地道に働いたとして、今どきいったいどれほどの稼ぎになるとお思いです? ねぇ、学生さん? 日に15コペイカにもなりはしませんよ。手に技術もなく、ただまじめに働いただけじゃあねぇ。それも丸一日休みもせずに働いたとしての話ですよ。おまけに五等官のイワーノヴィッチ氏なんぞは ----名前はご存じでしょうな?---- オランダ麻のワイシャツ半ダースの代金をいまだに支払ってくれないどころか、やれ襟の寸法が合ってないだの、形がゆがんでるだのと難癖をつけて、おそろしいほどの罵詈雑言を浴びせて、娘を追い返してしまうような始末ですからなぁ。家では何日も食べてない子どもたちが泣いているというのに…。カテリーナはいらいらと部屋の中を歩き回るばかりですしね。頬には赤い斑点までできて ----この病気にはつきものらしいのですがね。で、私に言うわけです。『いいご身分だね、この甲斐性なし。食って、飲んで、寝てばかりいてさ』ってね。子どもがもう3日もパンの皮にもお目にかからないでいるってのに、誰が食って飲んでしたってんですか! もっとも、そのとき私は酔っぱらって寝ちまってたましたがね。今さらウソを言ったってはじまりません。正直な話ですよ。そしてあのとき…。ソーニャはこう言ってましたよ。…あの子は口答えなんてしたことがないんですよ、それがあのとき…。その声がまた実に優しい声でしてね…。髪はブロンドで、肌は白くて細面で…。あの子はこう言ってましたよ。『カテリーナ…、私はどうしてもあんなことしに行かないといけないのでしょうか…?』なあに、ダーリヤという、たびたび警察のごやっかいになっているような女なんですが、家主の奥さんを通じてちょっと聞きに来たことがあるんですよ。その話でしてね。カテリーナは、『そんなもん大事にしてたからどうだってのさ! 宝物でもあるまいし!』とか冷たくあしらいましてね。いやいや、責めないでやってください。学生さん、どうか責めないでやってくださいよ。たぶん本気で言ったことじゃないんですから。自分は病気で働けないし、小さな子どもたちはお腹をすかせて泣きじゃくってるし…。いつものかんしゃくが出てついそう言ってしまっただけのことだと思うんですよ。それとも私へのあてつけで言ったのかもしれませんがね…。なにしろ、カテリーナにはそんなとこがありまして、子どもが泣き出すと、とっつかまえてひっぱたくといったことがね…。で、その日なんですが、5時をすぎた頃になると、ソーニャは立ち上がると、スカーフをかぶり、フードつきのコートを着ると静かに家を出て行きました。8時過ぎに戻ってきますと、カテリーナの目の前のテーブルに、30ルーブルもの銀貨を黙って置きました。ひと言も口を聞かずに…。そしてそのまま脇目もふらずに、ただ黙ってそこらにあった大きなスカーフを手に取ると頭からすっぽりかぶって、ベッドに横になりました。顔を壁の方に向けましてね。ソーニャの身体はずーっと震えていましたよ…。ところで私は、そのときもやっぱり寝ちまってましたがね。でも、ちらっと見たんですよ。しばらくするとカテリーナは、そっとソーニャのベッドに近寄って行きました。そしてひと晩中あれは、娘の足下にひざまずいたままでいました。最後はそのまま一緒に寝入ってしまいましたよ。じっと抱き合ったまま。…二人で、…二人で。…。そうなんですよ。ところがこの私ときたら、…酔っぱらって寝ちまってたんですからなあ」

     ソーニャは1回きりのつもりだったかもしれない。しかし売春を斡旋するダーリヤとのもめごとから、家族のためにしたその行為が公のこととなってしまう。結局、ソーニャは黄色いカード(売春許可証)をもらってそういう世界に入るしかなくなるのだった。そのために彼女は家主に追い出され、家族とは別に住むこととなる。ソーニャを狙っていたレベジャートニコフは、自分の望みが果たせなかったことを知ってマルメラードフ一家につらく当たるようになって、カテリーナとの一件が発生したというわけだ。ソーニャは夜暗くなってからこっそり家にやって来てはお金を置いていくのだという。
     マルメラードフは、一大決心をして、以前迷惑をかけた元上司のもとに出かける。まさに恥を忍んで。そして最後のチャンスを首尾良く与えられ職場への復帰を認められる。大喜びする家族。カテリーナは別人のように若々しくなり、靴からワイシャツから、制服から、上等の衣装をあつらえてマルメラードフを仕事に送り出す。23ルーブル40コペイカの最初の給料を持って帰ったときの彼女の喜びようときたら!
     ラスコーリニコフは、だまってマルメラードフの話を聞いていた。彼の、家族への病的な愛情話と、現実に目の前にいる男とのギャップに混乱し、酒場にやって来たのを後悔していた。
    「学生さん、ねえ、聞いてるんですかい?」マルメラードフはご機嫌な様子で言う。「あなたにとっても、あるいは他の誰にとっても、こんな話はただの笑い話でしょうなあ。こんな愚にもつかない話は、ご迷惑だったことでしょう。しかしこの私にとってはねぇ、笑い話じゃあすまないんですわ! あの日から起こったことひとつひとつが、胸にこたえっぱなしでしてね。最初の給料をもらった日は、私の生涯にとって天国のような一日でした。その夜は、これからどんどんよくなっていくんじゃないか、という空想で時のたつのも忘れました。何もかも片をつけよう、子どもたちにも着るものを着せ、あれにも楽にさせたやりたい、それからかわいいひとり娘をあんな泥水稼業から救い出して家族のもとに早く呼び戻してやろう、とかね。ほかにもいろんなことを考えましてねぇ…。まあ無理もないでしょう、そうお思いになりませんか? ところが、学生さん…」マルメラードフは急に身をふるわせて顔を上げると、じっとラスコーリニコフを見つめた。「ところがですなあ、そんな空想にふけった次の日のこと、…つまりは今から5日前のことになりますが、夕暮れ時分に私は、カテリーナをうまく言いくるめてトランクのカギをだましとり、まるでコソ泥のように、持って帰ってきたばかりの給料の残りをすっかり抜き取ってしまったというわけですよ。全部でいくらあったかは覚えてはいませんがね。さあ、私の顔を見てくれ、みんな! 家から逃げ出してから今日で5日目、家じゃあきっと私を探していましょう。勤めの方もこれでおさらば、まっさらな制服はエジプト橋のそばの酒場にころがってまさあ。その代わりにもらってきたのが、これこの服。…。これで万事おしまいというわけさ!」
     マルメラードフは、こぶしで自分の額をごつんと叩くと歯を食いしばり、目をつぶって、どかんとテーブルに肘をついた。そしてしばらくすると顔つきが急に変わった。取ってつけたような悪人ぶった態度でラスコーリニコフの顔をちらりと見て、急に笑い出してまた話を続けた。
    「実は今日、ソーニャのところへ行ってきたんですよ。迎え酒の酒代をねだりにね! ハハハ、アハハハ!」
    「で、金はもらえたのかね?」新しく入って来た客のひとりが横あいからわめいた。その後は大声で笑いだした。
    「ほれ、この酒がその金で買った代物でさぁ」マルメラードフは酒瓶を片手に、ラスコーリニコフの方を向いて言った。「30コペイカもくれましたよ。有り金ぜんぶでさぁ。私はこの目で見たんですよ…。何にも言わずに、ただ黙って私を見つめていましたよ…。この世の人間の眼とは思えません。まるで天国の人のように…。人間のすることを悲しみ、涙を流しはしても、決してとがめない、とがめはしないのです! しかしその方がつらい! とがめられない方がよっぽどつらいことなんだ! …。30コペイカ。ええそうです。でもあれにだって金はいるでしょう。ねぇ、そうでしょう、学生さん? 今じゃあ身なりにも気をつけなきゃならんでしょうし。こざっぱりした格好をねえ。あの子たちの身支度にはけっこうな金がかかるものでしてね。おわかりでしょう? ポマードだって買わなきゃあいけません。ポマードなしにははじまりませんからな。糊のきいたスカートだっていりますし、脚をきれいに見せるために可愛い靴だって揃えないといけない。おわかりですか、おわかりですかな、あなた? このこのこざっぱりした身なりの大切さが…? そのれなのに、私ときたら、30コペイカというその金を、迎え酒の飲み代にふんだくってきちまったんだ! そしてその金でこうして飲んでいる! いいや、もう飲んでしまったんだ! …。さあ、それでも私のような人間を、誰か憐れんでくれる人がありますかね? どうです? あなたは今、この私を憐れに思われますか、学生さん? どうですかね? さあ正直に言ってくださいよ、あなた。憐れか、憐れでないか? アハハ、ハハ…」

     マルメラードフは、意地悪な継母と、母親違いの子どもたちのために自分を犠牲にした娘を自慢する。そして、そんないい子なのだから、売春婦という汚れた身になってはいても、いやむしろそうだからこそ、最後の最後には神に赦されるはずだ、と叫ぶ。娘の幸せを神に約束させるかのように。周囲にはさらなる嘲笑があふれるが、ラスコーリニコフの胸中には男に対する優しい気持ちが芽生えていた。彼は、もはや泥酔してひとりでは歩けなくなったマルメラードフを家まで送ってやることにする。
     ラスコーリニコフはマルメラードフの貧しい暮らしを目撃する。妻にののしられ乱暴されながら、男が幸福感にひたっているのをただ眺めている。妻は、自分たちの金で一緒に酒を飲んだと思い込み、こんどはラスコーリニコフにくってかかる。そして帰りがけに彼は、ポケットからつかめるだけつかんだお金をそっと置いてきてやるのだった。
     ラスコーリニコフは、帰り道でただちに後悔する。だってあの家族にはソーニャがついているじゃないか。でも、ソーニャにもやっぱりポマードがいるんだから…と、自分の行動をしぶしぶ肯定する。ソーニャはたしかに不幸をしょいこんだかもしれない。でも彼女が、その境遇を利用して家族を養い続けているというのも事実だ。今じゃあ、きっと自分のことを悲惨だなんて思っていないだろう。つまり彼女も卑劣な人間なんだ。最初は涙を流したかもしれないが…。
     でも、もしそうじゃないとしたら…。実際、この世に卑劣なんてことが存在するのか? 卑劣とか卑劣でないとか全部ただの偏見じゃないのか? だとしたら…、いやそうなんだ。このときラスコーリニコフの頭を占めていたのは、なぜ彼はそれをしてはいけいなのか? ということだった。


舞台となった街
ペテルブルク

(現在のサンクトペテルブルク)

1712年から1918年まではロシアの首都であり、ヨーロッパでも有数の巨大都市だった。帝国ロシアの威信をかけて人工的に作られた港湾都市で、その建設には帝国中から集められた農奴が従事し、多くの犠牲が払われた。建築物は、あえてロシア伝統の様式を廃し、当初はオランダ風、後にはフランス風が推奨され、今なお優美な街並みが残る。「ペテルスブルグ(ブルク)」と表記されることもある。

ラスコーリニコフが暮らしたペテルブルクという街は、当時の最先端建築が集う大都会だったのだ。




当時の社会情勢

クリミア戦争(1853〜56)で、実質的にフランスとイギリスに敗北したロシアは、帝政という屋台骨が大きく揺らいでいた。また、フランス革命(1788〜1799)以降、ヨーロッパには自由の風が吹き荒れていて、ロシアも当然無縁ではなかった。鉄道網など交通の便がよくなり、情報が詳細に素早く伝わるようになった、というのもその一因である。

ロシア国内の暴発を防ぐためのガス抜き的に「農奴解放」(1861年)が行われたが、土地も財産も持たされることなく自由を与えられた元農奴たちの多くは仕事を求め都会へ。その結果、都会には失業者があふれ、犯罪がはびこることとなる。
1875年には、自殺者が国内の死亡原因の30%近くを占めたほどで、ロシア社会全体が疲弊しきっていた、そんな時代だった。
ペテルブルクは大都会ではあったが、この時期そこに暮らす多くの者にとっては、石造りのビルばかりが並ぶ無機質でよそよそしい街、犯罪と退廃に満ちたおどろおどろしい街だったに違いない。




お金の単位と物価

1ルーブル=100コペイカ
1グリーブナ=10コペイカ
作中に出てくるお金の話を書き出すと、ラスコーリニコフの母親の年金が、年に120ルーブル。母親からの郵便代が3コペイカ。ウォッカの小瓶が30コペイカ。
乱暴に今の日本の物価に置き換えると、1ルーブルはおよそ3千円〜5千円くらいではなかろうか。1コペイカが30円〜50円くらい? 
1867年にロシアがアメリカにアラスカを売却したが、このときの売価が720万ドル(1100万ルーブル)で、現在の価値に換算して約8兆円という試算がある。これでいくと、1ルーブル=現在の約70万円ということになってしまう。20世紀における、他の物価に対する地価の上昇比率を考慮しても、1ルーブルの価値があまりにも高すぎるように思うが。
余談だが、この時期にアラスカを売るほどロシア経済が疲弊していたというのは事実としてある。
※この項目、信頼できる資料が見つかり次第更新します。




老婆の金利

金貸しの老婆の金利だが、1ルーブルにつき、利子は月額1グリーブナ(10コペイカ)。年間では12グリーブナ(1ルーブルと20コペイカ)となり、つまり年利は120%。
現在の日本の法律では、10万円未満の借金では年利は20%以下、100万円未満で18%以下ということになってるので、単純に比較すればかなり高い。
ただし上の金利はカードローン等の話。日本の質屋と比べるなら、法律上の特例で質屋は年利108%まで認められているので、それほど変わらないということになる。
日本の闇金では年利2000%なんてのもあるらしいから(よく耳にするのは年利360%)、老婆が「年利120%も取る極悪人」というわけではなさそうだ。




作中の日付について

作品中には、「7月」としか書かれていない。推定される日付として評論等で語られているものを参考に日にちを設定した。1865年が舞台と思われる。




作中の季節

この7月という時期は、ペテルブルクは白夜の季節で、夜も外は明るい。それだけでなく、気温は30度を超えることもあるほどの暑い日々が続くそうだ。
ロシアというとつい寒々とした空気を思い描きがちだがそれは間違い。




1865年

「罪と罰」の舞台になったとされる1865年は、この作品が発表された前年にあたる。日本では明治になる2年前でまさに幕末。日本で蒸気機関車が初めて走った年でもある。南北戦争中のアメリカではリンカーン大統領が奴隷解放を宣言した。トルストイが「戦争と平和」を、ルイス・キャロルが「不思議の国のアリス」を、ジュール・ヴェルヌが「月旅行」を書き、メンデルの法則(遺伝子の法則)が発表された。シューベルトの「未完成」と、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が演奏された。 




ラスコーリニコフの部屋

当時のヨーロッパの学生の生活は、おしなべて貧困。居住環境は劣悪で当たり前だった。一般庶民出身の学生であれば、狭い部屋をなおかつ相部屋で使うというのが普通だったので、ラスコーリコフの部屋はむしろ条件的にはいいほうだったかもしれない。日本に置き換えれば約三畳ほどの部屋。屋根裏ということは、天井は屋根と同じ角度に傾斜していたのだろう。そこに小さな窓がひとつ。戸棚のような部屋とあるから、むき出しの棚が壁の一方を覆っていて、その一部を机代わりに使っていたかもしれない。家具はベッド代わりのソファがひとつきり。荷物や衣装を田舎から持ってきたときのトランクがそこらに転がっていたことだろう。

当時の学生の住まいとしてはもしかすると上等の部屋だが、ドストエフスキーの狙いは、成績優秀で将来を嘱望され、貧乏な出自ながらも、家主の娘(物語の時点では既に亡くなっているが)との婚約で、前途洋々だったラスコーリニコフという人物の過去を強調するための設定だったのではないだろうか。ただの貧乏学生ということではなく…。



ラスコーリニコフの境遇

母親と妹との3人家族。主に母親の年金で暮らしてきた。その母親の年金と何かしらの財産を質入れするなどして、母はラスコーリニコフを大学に送り出したと思われる。その後、仕送りも途切れ、ラスコーリニコフは家庭教師で学費を捻出していたのだが、それもいつからかやめてしまった。その結果、大学は休学するしかなくなった。
家庭教師先の娘と婚約していたが、その娘は病で亡くなってしまった。今は、その娘の母親宅で部屋を又借りしている。それに甘えて家賃も滞っているが、その母親はもはや何の関係もない他人となったラスコーリニコフを追い出したがっている。

ラスコーリニコフ本人の母親はその後も年金暮らしをしている。妹も優秀で、田舎町で住み込みの家庭教師をして生計を助けている。














マルメラードフとの会話

「罪と罰」を象徴するシーンが、このマルメラードフとの出会いである。物語全体のヒロイン・ソーニャとの出会いのきっかけという意味合いだけでなく、ラスコーリニコフのその後を象徴するような破滅型の男。自虐的な男。そればかりか自身が転落していくことに快楽すら感じている。
この長い会話のやりとりをたいくつに感じて読破を諦める人が多いようだが、あらすじとしてカットしてしまえば数行で終わるところを、延々と書き連ねたところにドストエフスキーの意図があり、重要なファクターが随所にちりばめられている。

日本人にはわかりにくいことだが、キリスト教に関連した象徴的な内容が多く、ロシア正教否定論者、無神論者が台頭してきていた社会情勢を意識して書かれているのは間違いない。忘れてはならないことだが、ドストエフスキーは当時大人気の流行作家だったのだ。




「この人を見よ」

ロシア語の聖書の文言に合わせてあるらしい。ヨハネの福音書の中で、ユダヤの王に見立てた衣装を無理矢理着せられたイエスに対して、為政者のピラトが言ったとされる言葉。はりつけに向かう直前のイエスが、ユダヤ人の観衆から死を求められる場面である。イエスを許そうとしていたピラトにしてみれば、死罪にする代わりに「この哀れな男をみんなで笑ってやれ」という意味だったろう。
マルメラードフの意図の解釈はいろいろあるが、あえて嘲笑される立場に身を置いているということの例えか、単に「笑いたいなら笑え」の意味か。

この作品とは直接関係ない話だが、後にニーチェが、その著作「この人を見よ」の中で、なぜ自身が賢いのかなど、皮肉を交えた自画自賛を綴っている。
「それに負けない豊かさを備えている場合には、不当なことをするのも、ひとつのいいことですらある。もし神が地上に来るとすれば、不当よりほかにはまったく何もすることがないだろう。罰ではなくて、罪のほうを引き受けてこそ、はじめて神らしいのである。」というような文章もあって興味深い。

いずれにせよ、この言葉の裏に、「罪」(キリストの犯した罪)と「罰」(はりつけ)の関係を示唆するものがあるのは間違いなさそうだ。




帝政ロシアの公娼制度
(現在調査中)







間借り

この頃のロシアでは、家主から部屋を借りて、その一部を又貸しするというのがごく普通のことだった。マルメラードフの一家は建物の通路の一部を借りていたらしい。住人が普通に横を通るようなところについたてか何か置いて(もしくはそういうものもなしに)、暮らしていたわけだ。そんなふうに暮らしている人が、ペテルブルクにはいっぱいいたのだ。
ラスコーリニコフも同じことで、彼の屋根裏部屋も又貸しの産物だった。




マゾヒズム

「マゾ」の語源は、オーストリアの小説家マゾッホである。ドストエフスキーと同時代を生きた作家だが、マゾヒズム、マゾヒストの原型になったとされる「毛皮のヴィーナス」は1871年の作品。その後1890年に、精神科医のクラフト・エービングが、苦痛によって快楽を得るような行為を「マゾヒズム」と命名した。というわけで、マルメラードフの性質をマゾヒズムと片付けるのは半分間違い。


    ★7月8日

     翌日、遅くまで寝ていたラスコーリニコフは、間借りしている家の女中、ナスターシャに自堕落な生活をたしなめられる。おかみさんは本気でラスコーリニコフを追い出したがっているようだ。それも当然で、彼は何ヶ月も家賃なんか払っていない。ラスコーリニコフは、ナスターシャとの軽口の中、売り言葉に買い言葉でつい、近々大金が手に入る、というようなことを口走ってしまうのだった。
     ラスコーリニコフは、ナスターシャから、母からの手紙を受け取る。分厚い手紙。
     手紙は、仕送りができなくて申し訳ないというところから始まるが、本題は、妹、ドゥーニャの結婚だった。ラスコーリニコフの一家は、スヴィドリガイロフという金持ちの中年男から多額の借金をしていた。ドゥーニャはその男の家に、子どもの家庭教師として住み込みで働いていたのだが、男から関係をせまられて困っていた。男にくどかれているのを目撃した男の妻は、ドゥーニャの方から誘っていたことにして彼女を家から追い出す。田舎のことなので、悪いウワサが飛び交って、ドゥーニャは近所の人たちからの迫害を受けるまでになる。そこへ現れたのがルージンという中年の弁護士。ドゥーニャに一目惚れしたルージンは出会った翌日彼女にプロポーズする。ドゥーニャは最初はルージンを気に入ってはいなかったが、母親の説明では突然彼を気に入るようになって結婚を決めたらしい。手紙によれば、母親も最初はルージンの無愛想な感じが気に入らなかったようだ。「貧乏人から嫁をもらう方が、夫を恩人と思うから好都合だ」という失言は許せなかったと言う。だが、それも結局は許してしまったらしい。
     手紙の最後には、ルージンがペテルブルクで近々法律事務所を開くので、場合によっては法学部で学ぶラスコーリニコフを共同経営者として迎えてくれるかもしれない、とある。決してそのために無理に結婚するのではないけど、ドゥーニャがそれを強く望んでいると。その男は、1週間もすればペテルブルクにやって来る。母親と妹もやって来るようだが、ルージンとは別に、荷馬車と鉄道を乗り継いでやって来るという。
     ラスコーリニコフは、汚いやり口で妹を手に入れようとするばかりか、2人にどこまでも失礼な態度で臨むルージンという男を激しく憎む。聡明なドゥーニャがなぜそんな男を選ばないといけないのか。母と兄のためにまさに崖から身を投じようとしているドゥーニャ。ボクはなんとしても妹を救わないといけない! そのとき彼の心に浮かんだのは、ソーニャのことだった。ドゥーニャの選ぼうとしている道は、ソーニャのそれと結局は同じじゃないか。ルージン夫人となった妹はこぎれいな身なりを整えるだろう。でもそれはソーニャのけばけばしい身なりとどう違うのだろう。むしろドゥーニャの身なりの方が醜悪だ。選択の余地がまだある中で将来の安楽を思っての打算と、切羽つまった中であとは飢え死にしかないというところからの投身。結果的にどっちがより苦しみを背負うことになるのだろう?
     「そんなことは絶対にさせるもんか!」と、ラスコーリニコフは心の中で叫ぶのだった。
    「させるもんか、だって? いったいどうやって? ドゥーニャを止めるためには具体的な何かがいる。大学を卒業して職についたら、彼女や母親を必ず幸せにしてやる、といった約束が。しかしそんなことは今のままでは無理だ。そのために今できることは? だって今すぐなんとかしないとドゥーニャを救うことはできないんだ。お前にはそれがわかっているのか! それなのに今、お前がやってることは何だ! 母親と妹が作った借金の上にのうのうと遊びほうけていたくせに。年金をかたに入れたり、いやなやつの家で働いたり、身の回りのものを売ったりして工面した金を…。スヴィドリガイロフやルージンなんていう連中から、いったいお前はどうやって彼女らを守ろうと言うんだ。十年先にいくら億万長者になるんだとしても、そんなことは今関係ない。十年もすれば母親は内職がたたって眼が見えなくなってるかもしれない。栄養失調でやせ衰えて…。妹は…、妹はどうだ? 十年もしたら、いやその十年を待つまでもなく妹の身がどうなってしまうか? そうさ、そうじゃないか!」
     こんなふうに彼は自分を責め続けた。そこには一種の快感すらあった。実はこんな考えは、今日になって急に湧いて出たものじゃなく、ずっと以前からふつふつと身体の中にあったものだった。その考えは、ずっと以前から彼を悩ませていた。考えるのがいやになるほどに。

    母親の手紙は、彼の心に大きな衝撃を与えた。できるだけ早くなんとかしないといけない! 断固として心を決めないと。何もしないということは生きていくのを拒否することだ。彼は決意する。あるがままの運命を受け入れて、心のおもむくままに行動し、そして生きていく。自分の心なんか消し去ってしまえばいい。マルメラードフの言葉がこだまする。どんな人間にだって、行くだけでも行けるところがなくてはしょうがない。ラスコーリニコフは、再び心に浮かんだ恐ろしい考えに驚いていた。昨日まではただの空想だったものが、突然リアルなものになっていた。

     家を飛び出したラスコーリニコフは、酔っぱらったようにふらふら歩いていく若い娘を見かける。どこかの落ちぶれた、いい家の娘さんという感じ。その女の子から少し離れたところを妙な男がつけている。彼女が倒れでもしたら介抱するふりをしてどこかへ連れ込もうとでもいうのだろう。たまたま来合わせた警官に彼は無造作にポケットから金を渡し、辻馬車にでも乗せて家に送ってやってくれと頼む。しかし娘はいかにも迷惑というふうに元来た道をよろよろと戻っていく。追う警官とすけべ男…。
     残されたラスコーリニコフは考える。自分に人を助ける権利なんかあるんだろうか。見も知らぬ娘のためにくれてやった20コペイカ。あの金はお前の金なのかい? 彼の頭の中は混乱して考えが定まらない。考えること自体が苦痛だった。




ロシアの郵便制度
(現在調査中)




ロシアの交通事情
(現在調査中)




ドストエフスキーの家族

母親は優しい人だったらしいが、病弱で、ドストエフスキーが16歳のときに結核で亡くなっている。
兄弟は、上に兄のミハイル、下に弟と妹合わせて5人の7人兄弟。ちなみにソーニャは姪の名前である。




ペテルブルクの位置

現在の首都・モスクワから見て北北西に650キロくらいの位置にある。
ラスコーリニコフの出身地は作中にははっきりとは書かれていないが、モスクワ南東の都市ザライスク近郊という設定だったらしい。ザライスクはモスクワの南東160キロあたりにある。東京からだと、北海道とか山口県あたりまでの距離だが、国土の広いロシアの話だから我々が考えるよりは近い感覚?
    「かわいそうな娘。彼女はやがて正気に戻る。しばらく涙を流すかもしれない。母親にも知れるだろう…。最初はただ叩かれるだけか。繰り返せばそのうち鞭で打たれるようになる。痛いだけでなく恥ずかしい思いをするようになって、ことによると家を追い出されるかもしれない…。運良く家を追い出されなかったとしてもそのうち悪い連中の餌食になって、あっちこっちやばい場所に顔を出すようになるんだ。その次は病院だ。立派な親の元で暮らしてるくせに陰でこそこそ悪い遊びをするような連中はきまってそういうことになる。そしてその次は…、その次もまた病院か。酒…、酒場…、病院…。2、3年もすれば立派な廃人になって、18か19歳くらいで死んじまう。そんなのどこにでもいるじゃないか。どうしてそんなことになるんだ? あいつらはそうなるのがわかってるくせにそうなっちまうんだ。ちぇっ! 勝手にすればいいじゃないか。世間では、そういうのが当たり前だと言われてる。毎年同じだけのパーセンテージでそういうやつらが出ないといけないんだそうだ。…。おかしな話さ。きっと、ほかの女の子の純潔をまもるために、その邪魔をしないためにそうするんだろうよ。パーセンテージか! まったく、うまいことを言ったもんだ。気安めにはなる、科学的な言葉だ。パーセンテージで片付けてしまえば、それでもう何も心配することはないんだからな。もしこの言葉がなかったら、それこそ…。こんなに安心して見てられないだろうな。しかし、もしもドゥーニャがこのパーセンテージの中に落ち込んでしまったらどうだ? いい方じゃなくて、悪い方のパーセンテージに?」
     ラスコーリニコフは無意識のうちに、唯一の友人、ラズーミヒンのところへ行こうとしていた。大学で唯一、遠慮なしに話せる相手。珍しいくらい明るくて善良なる男。ラスコーリニコフと同じく貧しい出身で、そして彼と同じように今は休学中の身の上だった。
     ラスコーリニコフは、そんな友人を頼ろうとしていたことに愕然とする。頼ったところでどうなるものでもない。なぜ彼の元へ行こうとしたのか。友と会うことに何か不吉な予感のようなものを感じる。もし彼と話せたなら、胸の内にある恐ろしい考えは消えるのか?
     最終的にラスコーリニコフの頭に閃いたのは、すごく奇怪な考えだった。ラズーミヒンのところへ行くなら、あれが済んだその次の日に行く方がいい。あれがすっかり片付いて、新しい生活が始まったそのときに…。

     いったん決心はしたものの、ラスコーリニコフの心は揺れ動いている。彼は、そのまま街をさまよい歩く。お腹がすいていた。ポケットをさぐると残金は30コペイカほど。使った金を計算すると、マルメラードフのところに50ペイカ近く置いてきたことになる。パイをひとつ買って、ウォッカを1杯ひっかける。久しぶりのウォッカに眠くなり、彼は草むらに倒れ込んで寝てしまった。
    病的な精神状態の中、ラスコーリニコフは恐ろしい夢を見る。子ども時代に実際にあったできごと。酒場の外でやせ細った馬が、飼い主と酔っぱらいたちに、面白半分になぶり殺されるのだ。大勢で笑いながら、馬の目をむち打つ。ラスコーリニコフは止めようと老馬の横に駆け寄るが、酔っぱらいの鞭は、ラスコーリニコフにもようしゃなく飛んでくる。飼い主は、自分の馬なんだから殺そうがどうしようが勝手だ! と、バールを持ち出して打ち付ける。酔っぱらいたちも面白がって、鞭や棒きれで哀れな馬を打ち続ける。馬が息絶えると、ラスコーリニコフはたまらなくなって酔っぱらいたちをかきわけて、飼い主に飛びかかろうとするが、一緒にいた父親につかみとめられる。なんで、あの人たちはあんなかわいそうなことをするの? ラスコーリニコフはしゃくりあげながら父親に聞く。胸が苦しくなって何か叫ぼうとしたところで、はっと目が覚めたのだった。
     なぜこんな夢を見たんだろう? ラスコーリニコフは自問する。
    「ああ!」彼は叫んだ。「ボクは本当に、本当に斧をふるってあの婆さんの脳天を叩き割るつもりなんだろうか…? ねばつく血の海で足をすべらせながら、錠前を壊し、盗みを働き、全身血まみれになって、斧を片手に身を隠すなんて…。まさか本当にそんなことができるのだろうか…?」
     彼はそうつぶやきながらふるえ続けていた。「ボクはどうかしてしまったんだ。あんなことが自分にできやしなことは、わかってたことじゃないか。それなのになんだってボクは…。現に昨日だって、下見に出かけて行って、とうてい自分の手に負えることじゃないと完全に悟ったはずじゃないか。それを今になって…。何をまだぐずぐす迷っているんだ? 昨日のことじゃないか、階段を下りながら、そんなのはけがらわしい、卑劣なことだとはっきり自分に言い聞かせたのは…。ちょっとそのことを想像しただけで、吐き気をもよおし、恐ろしくてたまらなくなったっていうのに…」

     少し眠っただけのことだが、それだけでラスコーリニコフの頭は冷静になっていた。身体はぐったりしていたが、呼吸が急に楽になり、この1ヶ月ばかり彼にのしかかっていた重圧がきれいさっぱりなくなっていた。ラスコーリニコフは神に誓う。あの呪うべき考えを放棄する、と。
     ラスコーリニコフはそのままいつもの道を通って、最短距離で家まで帰るべきだった。なぜ、そんな道を通って帰ったのか後々まで彼にも理解できなかったのだが、彼は、なぜか屋台や露店のひしめく広場を通る帰り道を選んだ。夜の9時頃とあって、広場は多くの人出でにぎわっていた。そこで偶然、ラスコーリニコフは、例の金貸しの婆さんの妹、リザヴィエータを見かける。姉にいつも奴隷のようにこき使われているかわいそうな女。年は35歳。少しにぶいところがあるが、善人であることは間違いない。彼女は知り合いと立ち話しをしている。通り過ぎる一瞬に聞こえてきた会話。明日の7時頃、リザヴィエータは外出するらしい。ラスコーリコフは、恐怖にかられる。ということは、明日の7時にはあの婆さんはひとりきり…。彼は、死刑宣告を受けたかのような気分で家にたどり着く。
     自分の運命は、自分の意志とは違うところで決まってしまった…。そう感じていた。
    初めて金貸しのイワーノヴナから金を借りた日のこと、友人からウワサを聞いて訪ねたのだったが、ラスコーリニコフは第一印象からなぜか彼女を嫌っていた。どうにも抑えられない嫌悪感。
     その帰り道に立ち寄ったカフェで、たまたま隣のテーブルに座った連中がイワーノヴナの悪口を言ってるのを耳にする。かわいそうな妹、リザヴィエータのこともそれではじめて知ったのだった。よくありがちな学生の会話だったが、ラスコーリニコフは何気なく聴き耳をたてる。
    「俺はあの憎むべきばばあを物殺して金を奪ったとしても、ぜったいに良心の呵責なんてやつは感じないね」
     聞いていた男はばかばかしいと笑ったが、ラスコーリニコフは激しく動揺した。なんという奇遇なんだ。
    「いやいや、俺はまじめに言ってるんだよ」学生はむきになっていた。「もちろん、冗談といえば冗談さ。でもね、一方には、死のうが生きようがどうでもいいような、無知で、邪悪で、誰の役にも立たない、というかむしろ百害あるだけの、放っておいてもどうせじきに死んじまう、病気持ちのばばあがいる。いいかい?」
    「うん、で、それがどうした?」連れの男が、困ったように答えた。
    「ところが、また一方には、救いの手が差し伸べられないためにむなしく失われていく、この世にとって有益な若い力というのもある。しかも、そういう若者は、無数に、この国のいたるところにいるんだ。ばばあが死んだら寄付するとか言ってるあの金があれば、そんな若者たちを救って、彼らが本来なすはずの多くの仕事をさせることができる。悪の道に落ちかけている数百、数千の人間を、正しい道に引き戻せるかもしれない。何十という家族が、貧困や腐敗から、破滅から、堕落から、また性病の病院から救われるかもしれない。あのばばあの金でね! あいつを殺してその金を奪え! 全人類のために、社会に役立てるために! キミはどう思う? たったひとつの、取るに足らないような小さな犯罪なら、いくつものすばらしい行動で帳消しになっていいんじゃない? たったひとつの生命のために、数千の生命が救われるんだぜ。ひとつの死に代わって、百の生命が生まれるんだ! これはたんなる数学的な問題じゃないか! あの肺病の、無知で邪悪なばばあの生命が、この世の生命全体に対していったいどれほどの重みを持っているっていうんだ? しらみやゴキブリの生命と変わらないじゃないか。いやそれ以下だ。なにしろあのばばあは生きてるだけで有害なんだから。あいつは他人の生命を食い物にしてるんだ」

     ラスコーリニコフのそのときのショックときたら…。もちろんそんなのは、きわめて月並みな、くちばしの黄色い連中がしょっちゅうそこらでひけらかしているような考え方だ。しかしあまりにもタイミングよく、彼自身が同じことを考えていたそのときに、いったいどうして…。同じような思いで婆さんのところから出てきたばかりなのに、なぜそんな偶然にぶつかったのか? そのときの偶然について、ラスコーリニコフは後々まで不思議でならなかった。まるでそれが天の啓示だったかのように思えて…。

     広場でリザヴィエータを見かけたあと、部屋に戻ったラスコーリニコフは1時間もの間、身じろぎもせずにベッド代わりのソファに座りこんでいた。いろんなことが頭の中にうずまいているのか、それともまったく何も考えられない状態なのか、自分でもよくわからなかった。そのうち悪寒がしはじめて眠ってしまった。


「%」という考え方

ある事例がどのくらいの確率で発生するのかを調べる「統計学」という学問は、17世紀には既に存在していたのだが、1835年に発表されたケトレーの「人間について」で、本格的に世界に広まった。ケトレーは後に、「社会物理学」(1869年)を発表し、現在の社会統計学の基礎を築いたとされる。
社会全体の何%かが必ず不幸になる、というラスコーリニコフの考えは、当時の知識人に流行していた新しい考え方だったと思われる。そういった新しい考え方が随所に散りばめられてられている、というのも、当時の読者にとってのドストエフスキー文学の魅力のひとつだったことだろう。今と違って、書物は基本的に知識人向けのものだったわけだから。





ラズーミヒン

この第一部では名前しか出てこないが、第二部以降は最重要人物のひとりとなる。ラスコーリニコフとは正反対と言ってもいい、大らかで明るく、正義感の強い常識人。ソーニャと並んで、ラスコーリニコフが今後再生していく上でなくてはならない人物である。




農夫たちに殺された
ドストエフスキーの父親


父は軍医で、ドストエフスキーを厳格に育てた。
軍医を辞めてからは、田舎の土地を買って隠棲。そこでは、気まぐれで呑んだくれの暴君としてふるまった。癇癪もちで気に入らないことがあるとしょっちゅう農夫たちを殴っていたらしい。結局その恨みから、農夫たちに殺された。サボタージュする農夫たちを殴りつけようと棒を持って出かけて行き、逆に口をふさがれて窒息死した。サボタージュは農夫たちの陰謀で、乱暴な領主を逆にみんなで殴り殺すつもりだったらしい。
当時は、ロシア各地で農民が領主を殺害する事件が頻発しており、珍しいことではなかったが、もちろんドストエフスキーになんらかの影響を与えた事件だったことだろう。




作中に登場する夢

ストーリー展開上の重要なファクターとして、夢の記述が再三出てくる。ここに出てくる馬の夢は、もちろんラスコーリニコフに対する天使の囁きという役割であるのは間違いないが、ラスコーリニコフの父親が登場すること、ドストエフスキーの父親が農夫たちによってたかって殺されたことなどを重ね合わせると、実はもっと深い意味があるのかもしれない。

精神分析の始祖・フロイトの「夢判断」が出版されるのは1900年のことだし、フロイトが精神分析を本格的に始めたのが1886年というのを考えると、1866年発表の「罪と罰」におけるドストエフスキーの着想は驚異的だ。おそらくは何かしらの実体験を反映させているのだろうと思われる。




7時

広場でラスコーリニコフが話を盗み聞きした相手は、地方出身と思われる商人夫婦。彼らのなまりがひどかったために、ラスコーリニコフがこのとき時間を聞き間違えたのだとする研究者もいる。ロシア語でなまりをどう表現するのかという知識はないので、はっきりはわからないが、夫婦がリザヴィエータに言ったとされる「7時(フ・セミ・チャソーフ)にいらっしゃい」というのは「6時過ぎ(フ・セモーム・チャスー」の聞き間違いだったのではないかというのだ。




時計

このあたりから巧妙に、時間の記述がところどころに入ってくる。冒頭で父親の形見の時計を質入れしてしまったラスコーリニコフには、自分で時間を確認する方法がない。そこで彼は、街の時計、他人の部屋から漏れ聞こえる時計の時報、あるいは他人が口にする時間を頼りに、時間を知るしか方法がなくなる。
このことは、実はストーリー展開にとってきわめて重要な伏線となっている。

ちなみに、当時は腕時計はまだポピュラーなものでなく、ポケットに入れて持ち運ぶ懐中時計が一般的だった。ということで他人の時計を盗み見るなんてこともかなり難しかったわけ。日本でも最近は腕時計でなく、ポケットに入れた携帯電話を時計代わりにしている人が多いわけだから、そのあたりは共感しやすいのではなかろうか。




天使と悪魔

ラスコーリニコフの心の中に次々と去来する、天使の囁きと悪魔の誘惑。神話の時代からあったモチーフではあるが、罪と罰では、リアリティある、誰しも日常経験するような偶然や心の動きとして表現されている。
悪魔との契約を書いた、ゲーテの「ファウスト」が完結したのが1833年なので、神や悪魔が身近なものだった当時において、ドストエフスキーの描き方は、リアルというだけでなく、かなり斬新なアプローチだったと思われる。

    ★7月9日

     次の日、女中のナスターシャが起こしに来ても、ラスコーリニコフはなかなか起き上がれなかった。彼の目には絶えず奇怪なまぼろしのようなものがちらついている。朦朧としている彼の耳に時計の時報が響く。何時頃だろう? とはっきりしない頭の隅で少し考えて、ハッとソファから跳ね起きた。こんなにバカみたいに眠りこけていたことが不思議でならなかった。何の準備もしないで…。今鳴った時計の音はたぶん6時だったろう。いらだたしさがこみ上げてくる。呼吸が苦しくなってきた。何かで輪を作って早くコートの裏側に縫いつけないと…。1分でやろう…。彼はボロシャツを裂いてヒモ状にして、コートの裏に輪っかにして縫いつけにかかった。手がブルブル震えていたがどうにかそれをやりとげた。このための針と糸は何日も前からきちんと用意していたのに。彼は、もうひとつ用意していた小さな包みをソファと床の狭い隙間から取り出した。ただの板きれに鉄板をくっつけて紙で包んだだけのものだ。パッと見、タバコ入れに見えるはず。包みはヒモで固く結んであった。婆さんが簡単にはヒモをほどけないように。
     そのとき、窓の外で誰かの話し声が聞こえた。
    「6時はもうとうに回ったぜ」
    「えっ!? そりゃあまずい!」
     ラスコーリニコフは、コートの輪っかに引っかけて斧を隠し持っていこうと考えていた。ナイフは持っているので、それも考えたが、確実にやれる方法とは思えなかった。下のおかみさんのところにある斧、それをこっそり持ち出して、気づかれぬうちにまた戻しておくというのが計画だった。7時というのも都合がいい。夕方だとおかみさんもナスターシャも必ず出かけている。
     彼はあえて頭の中で完全に計画するようなことはしないでいた。というのも、計画が完璧になれば完璧になるほど、不思議な気持ちが芽生えてくるのが彼にはわかっていた。完璧すぎるほどに計画を立てたそのときには逆に、絶対に実現できないという自信のようなものが湧いてくるに決まっているのだった。
     今しようとしていることに現実感がなかなか持てない。このあいだ下見に行ったときだって、空想ばかりしていたってしかたがない、と、とりあえず出かけてみただけのことだった。それなのにあんなに嫌悪感を感じたというのに…。そんな自分が本当に立ち上がって老婆の元へ出かけて行けるのだろうか? とはいえ、そのことに道徳的に問題があるとかそういうことではない。人間としてしてはいけないとか、そういうことについては彼の中での反論は全て終わっていた。だが、いよいよとなるとなぜか逡巡してしまうのだった。この日、最後の最後の決断は、服の端を歯車にはさまれてじりじりと引っ張られていくように、半ば強制的に、超自然的な力で決定がなされたという感じだった。
    問。ずいぶん以前から彼の頭の中にはひとつの疑問があった。なぜ、ほとんど全ての犯罪は、ああもやすやすと発見され、犯人は見つかってしまうのだろう? なぜ、ほとんど全ての犯人の足取りは、ああも明確に暴かれてしまうのだろう? 彼の考えでは、もっとも大きな要因は、犯人自身なのだ。犯罪を隠すことが物理的に難しいとかいったことはあまり関係がない。犯人本人が、ほとんど例外なくみんな、犯罪を犯す瞬間に、意志や理性を失ってしまうことに要因がある。もっとも理性と慎重さが要求されるその瞬間に、子供じみたありえない軽率な行動をなぜかとってしまう。この理性や意志の喪失は、病魔のように犯人を襲って勢力を伸ばし、犯行直前には最高潮に達して、犯行の瞬間までそのまま支配する。人によっては、犯行後もしばらくはその状態が続くことがある。それから、ほかの病気と同じように、しだいに快方に向かっていくのだ。ところで、こういった病気が実は犯罪を生むということがありえるだろうか? それとも犯罪そのものに、何かそのような特質があって、常に病気に近い状態が発生するというようなことだろうか? ラスコーリニコフはこれらの疑問に対してまだ解答を持っていなかった。
     ラスコーリニコフは、自分には、自分がやるときには、そういった病的なことにはならないだろうと断言できた。計画遂行の間じゅう、理性と意志は少しも曇ることなく保っていられるに違いない。その理由はただひとつ。自分の計画は、『犯罪ではない!』からである。

    『意志と理性さえきちんと保たれていれば、実行するときに何か些細なトラブルが発生したとしても、そんなものは、ごく自然に当たり前のように、解決されてしまう』、ラスコーリニコフはそんなふうに思い込んでいたから、今さら心配することはないはずだった。しかし、なかなか動き出せない。彼は、自分の決断そのものを信じられないでいたのだった。
     そして、絶対すぐ解決できるはず、と決めつけていたその些細なトラブルは、行動を起こしてすぐに発生する。階段を降りて大家のキッチンの斧をこっそり持って行こうと部屋を覗いたそのとき、出かけているはずのナスターシャがそこにいるじゃないか。しかも、そのまま見つからぬように通り過ぎて下まで降りてしまおうとしたとき、彼女と目があってしまった。出かけるところを見られてしまったじゃないか! 彼は気づかぬふりをしてそのまま通り過ぎた。斧がない! もうダメだ! 自分を冷笑するような気持ちと、激高とか同時に心にわき上がった。
     ラスコーリニコフは、途方に暮れて門のところで立ち止まった。『絶好の機会を永久に失ってしまった…』。門番小屋が目に入った、ドアは開いている。門番は近くを見回っているのだろう。椅子の下に見えたもの。斧だ! 彼はそっと小屋に近づいて斧を盗み出す。薪の間につっこんであったから、すぐには気づかないはずだ。斧を例の輪っかにしっかりとつっこむと、両手をポケットに突っ込んでそのまま外に出る。誰ひとり気づく者はいない。
    『こんなことは普通ではありえない。悪魔の仕業だ』自然と奇妙な笑いが漏れた。この異常な偶然が彼の行動を肯定してしまったのだ。
     通り過ぎる店の時計が目に入る。既に7時10分。急がないと。頭の中にはさまざまなことが浮かぶ。街をきれいにする方法。噴水や公園。ふと思う。多くの人間が、ホコリと悪臭にまみれたどうしようもない区域をわざわざ選んで住んでるように思えるのはなぜだろう? 彼はハッと我にかえって、肝心のこのときに意味のないことばかり考えている自分にあきれた。
    『刑場にひかれていく死刑囚もこんなふうに、別のことに心を奪われるのかな?』一瞬そんな考えが頭をよぎったが、もうそんなことを考えているひまはなかった。目的地は目の前だ。そこに門が見える。どこかで時計の時報が鳴る。まさか、もう7時半か? そんなはずはない。きっとあの時計だけ進んでるんだ。
     建物の門を通り抜けようとすると、ちょうど大きな荷車が通るところだった。彼はその陰にまぎれて誰にも見られずすんなりと通り抜けることができた。大きな中庭に抜ける。まだ誰にも出会わない。中庭に面した窓のいくつかが開いている。でも大丈夫。誰にも見られるわけがないんだ。
     手探りで斧の位置を直して、彼は用心深く、聴き耳をたてながら階段を上がって行った。階段には誰もいない。ドアも全部閉まっている。2階の空き部屋のドアひとつだけ開けっ放しになっていて、中では数人のペンキ屋が壁を塗り直していたが、誰もこちらに気づかなかった。
     ラスコーリニコフはすんなり4階にたどり着いた。老婆の部屋の向かいは空き部屋だ。どうやら老婆の部屋の真下も空いているらしい。ドアについているはずの表札がなくなってその痕がついていた。引っ越したばかりなのかもしれない。急に息がつまってきた。老婆の部屋の様子に聴き耳をたてる。死のような静けさ。もう一度周りを見まわす。服装をチェックしなおし、斧にもう一度手をやってみた。『蒼い顔をしてやしないかな、ボクは…。ひどく興奮していたりしないだろうか? なにしろ相手は疑り深いばばあだからな。少し待ってみるか…。せめて動悸をもう少し静めないと…』
     しかしなかなか動悸は静まらない。それどころか、ますます激しくなってきた。しょうがないので、彼はゆっくりと呼び鈴を鳴らした。返事がないのでもう一度ならす。
     老婆は家にいるに決まっている。疑り深い上にひとりきりなもんで用心しているのだろう。ドアに耳を押し当てて中の様子を伺うと、向こうでもドアに耳を押し当ててこっちの様子を伺っているのがわかった。彼はわざわざごそごそと音をたててから、もう一度、落ち着いたそぶりで呼び鈴を鳴らした。カギをはずす音が聞こえた。

    老婆は扉の隙間からうさんくさそうに彼を眺めた。ラスコーリニコフは動揺して思わずバカなミスをしてしまった。彼はドアに手をかけるとそのまま力ずくで開けてしまったのだ。老婆は戸口に立ちはだかったが、彼はかまわず部屋に入り込んだ。彼女は驚いて飛び退き、目を大きく見開いて彼の顔を見つめていた。
    「こんばんは、イワーノヴナさん」ラスコーリニコフは気さくな感じを装って話しかけたが、声はうわずるわ、途切れるわ、ふるえるわ、で散々だった。「ほら、こないだ言ってたやつを持ってきましたよ」
     老婆は、一瞬品物の包みに目をやりはしたものの、気味悪いものでも見るようにラスコーリニコフを眺め回した。それは、お前の考えはお見通しだよ、と言っているようにもとれた。ラスコーリニコフは、老婆の態度に恐怖心すら感じていた。
    「ひどく結わえたもんだね、これは…」
     老婆は、そのひもをほどこうと、明るい方へ、窓の方へからだを向けた。窓は閉め切ってあった。彼女は、無防備に彼に背を向けて立った。ラスコーリニコフはそっとコートのボタンをはずす。例の輪から斧を取り外し、コートの下に隠して持ったまま様子を見ていた。手に力が入らない。指が麻痺してこわばっていく。斧を落としてしまわないか、と心配したほどだ。彼は不安だった。頭がクラクラする。
    「なんだってまたこんなに固く結んじまったんだい、まったく!」老婆は忌々しそうに口にすると、彼の方へ向き直ろうとした。
     チャンスは今しかない。彼は斧をコートから出すと、おぼろげな意識の中で、無造作に、機械的に、老婆の頭を狙って、斧の峰側を振り下ろした。力がぜんぜん入らない。しかしいったん斧を振り下ろすと、たちまち力が湧いてきた。
     老婆はいつものとおり、帽子をかぶっていなかった。白髪まじりの、薄い、ブロンドの髪。ポマードをこてこてにつけて、うなじの上でネズミの尻尾のようにちょこんと編んで、先の折れたくしで留めてあった。斧はちょうど頭のてっぺんに命中した。彼女の背の低さが災いしてかなりの威力で突き刺さった。彼女は「あっ」と叫んだが、その声はか細かった。そのあと、両手で頭を押さえようとしたようだったが、急に力を失って、そのままくたくたっと床の上に座り込むような格好になった。片手にはまだ例の包みが握られていた。彼は力まかせに、また峰の方で何度か打ちつけた。脳天を狙って。血があたりに飛び散って、彼女はそのままドサッと床に崩れ落ちた。彼は、少し距離をとってその様子を見ていた。そして彼女の顔をのぞき込んだ。彼女はすでに死んでいた。今にも飛び出すか、というほどに目をむき、額や顔は、痙攣で醜くひきつっていた。

     ラスコーリニコフは、血が服につかないように用心しながら、老婆のポケットから鍵束を取り出す。頭はスッキリしていたが、手だけがまだふるえていた。奥の部屋に駆け込むと壁際のタンスに鍵を突っ込もうとする。がちゃがちゃ鳴る鍵束。その音が、ラスコーリニコフに恐怖を与える。その場を逃げ出したくなった。老婆がまだ生きていて起き出してきそうな気がしたのだ。慌てて老婆のところへ戻るとまた斧を振り上げた。でも、振り下ろしはしなかった。死んでいるのは明らかだった。頭蓋骨がくだけてへこんでいるのがわかる。首が妙な方向にねじ曲がっている。彼は指でさわろうとしかけ、慌てて手を引っこめた。ラスコーリニコフはそのとき、老婆の首にひもがかかっているのに気づく。何かに引っかかっていて時間がかかったが、なんとか引きずり出すとその先にくっついていたのは財布だった。パンパンにふくらんではち切れそうな財布。ラスコーリニコフは中身を調べもしないでそれをポケットに突っ込んで、急いで奥の部屋に戻った。タンスを開ける鍵がなかなか見つからない。あきらめてベッドの下を覗くと、立派なトランクが見つかった。中には赤いコート。彼は、真っ赤に汚れた手をそのコートで拭きとろうとしかけた。『赤いコートに赤い血なら目立たないだろう』。すると不意に我に返る。『なんてことだ、俺は気が狂いかけてるんじゃないのか?』
     そのとき、コートの中から金の懐中時計がぽろりと転げ出てきた。ラスコーリニコフは慌てて、トランクの中を引っかき回す。中には、金製品が布などにくるんでいっぱい隠してあった。いちいち中身を確かめることもなく、包みのままポケットというポケットに突っこむ。
     そのとき、老婆のいた部屋で足音が聞こえた。続いて、声にならないほどのかすれた叫び声。ラスコーリニコフはしばらく息を殺して様子を伺っていたが、やがて斧を引っつかむと奥の部屋から走り出た。
     部屋の真ん中に、大きな包みを抱えたリザヴィエータが突っ立ていた。信じられないといった表情で、殺された姉の姿を見つめている。その顔は真っ白で、声を立てる力もないようだった。突然現れた彼の姿を眼にすると、彼女はぶるぶるとふるえ出し、顔を痙攣させ始めた。彼女は片手を少し動かして、口を開こうと仕掛けたが、やはり声は立てなかった。そしてじっと、穴の開くほど彼の顔を見つめながら、じりじりと後ずさり、部屋の隅へ下がり始めた。叫ぼうにもまるで空気が足りないように口を動かしているばかりで、相変わらず声を立てはしなかった。ラスコーリニコフは斧を振り上げて彼女に襲いかかった。彼女の唇は何かを訴えるように悲しげにゆがんんでいた。何かにおびえた小さな子どもが、その怖いものをじっと見つめて、声を上げようとするときのように。哀れなリザヴィエータはいじめられ慣れすぎていたので、斧から身を防ごうともしなかった。斧が振り上げられたのはちょうど顔の真上だった。普通なら手を上げて防御しようとするところだが、彼女はほんの少し左の手を上に上げただけだった。ただ、相手を押しのけようとするみたいに、ゆっくりと手を前に突き出しただけ。ラスコーリニコフの一撃は、こんどは刃先を下にしてみごとに顔面に当たった。一撃で、額の上部から脳天まで完全に叩き割ってしまっていた。彼女はそのままどっと倒れた。ラスコーリニコフはすっかり度を失って、彼女の持っていた包みを引っつかんだが、すぐにまたそれを放り出すと、玄関の方へと駆けだした。
    殺してしまった…。予期せぬ第二の殺人。ラスコーリニコフを捉えたのは恐怖。一刻も早くこの場から逃げ去りたかった。とっさのこととはいえ、無害な人間まで殺してしまった自分に対する嫌悪感。もしその瞬間、彼が冷静であったなら、そのまま自首していたのかもしれない。
     しばらくの放心状態。うつろな目で部屋を見まわす。台所の隅に水の入ったバケツがあるのに気づく。そこで彼は、自分の手や斧を洗うということをようやく思いつく。彼は、石鹸まで使って長いこと手と、そして斧をきれいにした。窓際で斧を確かめる。血の痕跡はもうどこにもない。コートやズボンを調べる、特に血がついているようには見えない。靴に少ししみがあったので、ぼろきれで靴をぬぐった。でも、そんな調べ方ではぜんぜん足りないこと、あるいは自分で気づかないだけで人目につく何かがあるかもしれないことが、彼にはよくわかっていた。彼は部屋の真ん中で呆然と考えた。ボクはきっと気が狂いかけている。まともな判断力があるようには思えない。自分が今していることは見当違いのことばかりじゃないのか? そうだ、逃げないと! 慌てて玄関のドアに向かう。ところがそこには、今まで一度も経験したことがないような恐怖が待ち受けていた。
     ラスコーリニコフは、その場に突っ立ってじっと見つめてみたが、どうしても自分の眼を信じることができなかった。ドアが、玄関のドアが、外から丸見えのドアが、彼がさっき呼び鈴を鳴らして通り抜けてきたドアが、開いたままになっていて、大きな隙間を開けていたのだ。錠もおろさず、掛け金もかけずに、ずっと開いていた…。あの間中ずっと! ばあさんが用心のために少し開けておいたのかもしれない。…。ああそうか…、その後でリザヴィエータの姿を見たんじゃないか! それなのにいったいどうして、どうして彼女がどこから入って来たかということを考えずにいられたのだろう? 壁を通り抜けてくるわけがないじゃないか。
     彼は戸口に駈けよって掛け金をかけた。
    「そうじゃない! またバカなことをしているぞ! 逃げなきゃいけないんだ。逃げなけりゃ…」

     少しドアを開け、外の様子を伺う。下の方で話し声がしているが、しばらく待つと静かになった。ようやく廊下に出たとたん、ひとつ下の階のドアがバタンと開く音がした。誰かが何かの歌を口ずさみながら降りていく。彼はもう一度部屋に戻って後ろ手にドアを閉めた。足音が聞こえなくなるのを待つ。あたりがひっそりと静まりかえったのを確認してから外に出て、そっと階段を降りかける。と、下からまた新しい足音が…。
     足音は、重々しく、ゆったりしたものだったが、ラスコーリニコフはどういうわけか、間違いなくこの部屋に向かっているとわかった。足音はどんどん上がってくる。ラスコーリニコフは凍りついたように動けなかった。いよいよ4階に上がってくるというとき、ようやっとのことで部屋に戻ることを思いついた。後ろ手にドアを閉め、音をたてないように掛け金をかけた。ピタッとドアにくっついて身を潜める。見知らぬ客は思ったとおりドアの前に立った。ラスコーリニコフは、斧を握りしめて様子を伺う。呼び鈴が鳴らされた瞬間、部屋の中で誰かが動き出したような気がしてハッとする。見知らぬ客はこんどはドアノブをガチャガチャと引っぱり始めた。掛け金が踊っている。いまにもはずれてドアが開くのではないかという恐怖。とっさに掛け金を押さえかけたが、さすがにそれは思いとどまった。目がグルグルと回りだした。このまま倒れてしまうかもしれない。そのとき、男の声が聞こえた。いるはずなのに出てこない婆さんに悪態をつく。力まかせに何度も呼び鈴のヒモを引く。婆さんをよく知る人物であることは間違いない。
     不意にもうひとつの足音。小刻みでせかせかした足音が階段のあたりから聞こえた。2人は一緒にやってきたというわけではなく、偶然来あわせたようだ。顔見知りらしく、ドアの外で話すのが聞こえる。先に来た男は、婆さんと時間の約束までしていたらしく、なかなかあきらめそうにない。どこへ出かけたのか門番にでも聞いてみようかと、ようやく立ち去りかけた2人だったが、先の男は未練がましくまたドアノブを引っぱった。
    「あれ、カギはかかってないみたいですね。掛け金がかかっているだけですよ、これは」後から来た男がよけいなことを言う。「中から掛け金をかけたってことは中にいるってことでしょう」
     それを聞いて、先の男は猛烈にドアノブを引っぱり始めた。「中で何かあったに違いない」と、後から来た男は門番にドアを開けさせようと階段を降りていく。残った男は、さらにドアにガチャガチャ挑みかかる。カギ穴から中を覗こうとしているのもわかるが、鍵穴には内側からカギを差し込んでおいた。
     ラスコーリニコフは突っ立ったまま斧を握りしめていた。こうなったら、入って来た奴らを皆殺しにして…。2人がドアの外でゴタゴタ言い合っているときから、飛び出ていってやろうかとか、ドアをはさんでからかってやろうかとか、無謀な考えが幾度となく浮かんでいたのだった。なんでもいいから、早く片付けてくれ!
     残された男はしばらく部屋の前で待っていたが、下に呼びに行った男がなかなか帰ってこないので、ついにしびれを切らせて、ドカドカと階段を駆け下りていった。ラスコーリニコフは、そっと部屋から抜け出ると、ドアをピタッと閉めてとにかく下に降りることにした。そのとき突然下の方で激しい物音が聞こえた。ラスコーリニコフは慌てて上に駆け戻る。元いた部屋に入ろうとしたときだった、下の部屋のどこかからのの知り合うような声がして、階段を転がるように駆け下りていく音がした。騒ぎがおさまったかと思うと、今度は何人かの人間がガヤガヤと階段を上がってくるのが聞こえる。声には聞き覚えがあった。さっきのやつらだ。
     やぶれかぶれの気持ちで、ラスコーリニコフは彼らの方に降りていった。もうどうにでもなるようになれ! うまく通り抜けられたとしても、顔を覚えられて一巻の終わりというやつだろう。彼らはすぐ下の階にまで近づいている。すると、右手の方に開けっ放しのドアが見えた。職人がペンキを塗っていた例の空き部屋だ! おあつらえむきにペンキ屋の連中は出て行ってしまったらしい。さっき大声で降りていったのはあいつらだったんだな。まさに危機一髪のところで部屋に忍び込み、身を隠す。彼らが通り過ぎるのを待ってそのまま忍び足で部屋の外へ出ると、そのまま一気に駆け下りた。階段にも門のところにも誰もいなかった。すばやく建物を離れてラスコーリニコフは、往来に出た。今頃、倒れている2人を見つけているだろう。犯人が下の階にいったん隠れていたことにも気づくかもしれない。早く逃げたくてしかたなかったが、ラスコーリニコフはゆっくりとその場から離れていった。あの曲がり角を曲がってしまえば、人波に紛れることができる。神経がすり減るようだ。首筋が汗でびっしょりだ。そしてなんとか大通りに出たとき…、「またえらく酔っぱらったもんだな、あんた!」誰だか知らないが、いきなり声をかけられてギクリとする。
     ラスコーリニコフは朦朧とした意識の中、なんとか歩いていく。あまりにも人通りが多いのに愕然として、もう一度横町の方へ引き返そうとしたのは憶えている。

     家に帰り着いたときも、まだ意識ははっきりしていなかった。階段を上がっていく途中で斧のことを思い出した。なんとかこれを戻しておかないと…。簡単にいくようには思えなかったが、元の場所に返すのはやめてどこかよその家に投げ込んでやろうか、などといった安全な方法を思いつく余裕は彼にはなかった。
     結局のところ、何もかもが簡単に済んだ。行ってみると門番小屋のドアは閉まっていた。きっと門番は中にいるのだろう。そう思ったのに彼は、無造作にドアを開けて中に入ってしまった。何も考えることができなかったのだ。門番は留守だった。彼は斧を元の場所に戻すことに成功した。それどころか、それが済んで自分の部屋にたどり着くまで誰とも顔を合わせなかった。彼は着のみ着のまま、ソファーに倒れ込んだ。しかしなぜか全然眠れない。眠りこそしなかったが前後不覚の状態は続いていた。もし誰かが部屋に入ってきたら、大声で訳のわからないことを叫んでいたことだろう。頭の中ではいろんな考えがずっとうごめいていたが、彼には何ひとつ理解できなかった。精神を何かひとつに集中するなんてことはとうてい不可能なのだった。


    ※このページは、日本語訳されたもの数種をベースにして、読みやすさを前提にリライトしたものです。内容に関するご批判は真摯にお受けしますが、ロシア語の原文に忠実にのっとたようなものではありませんので、その点あらかじめご了承ください。
    もっとも参考にしたのはフランクリン・ライブラリー版(小沼文彦訳)です。ほかに主に参考にしたのは、光文社古典新訳文庫版(亀山郁夫訳)、岩波文庫の新版(江川卓訳)です。
    ※その他の参考資料:「『罪と罰』ノート」(亀山郁夫/平凡社新書)、「謎解き罪と罰」(江川卓/新潮選書)、「ドストエフスキイ・その生涯と作品」(埴谷雄高/NHKブックス)、「図説帝政ロシア -光と闇の200年-」(土肥恒之/河出書房新社)など
    ウィキペディア等のネット情報も参考にさせていただきました。


    PDF版は後日アップします)




子ども時代の
ドストエフスキー


ドストエフスキーは1821年生まれ、没年は1881年。
幼年時代からかなりの読書好きで、「ロビンソン・クルーソー」(1719年発表)に影響を受けて弟と、ロビンソン&フライデーごっこをしたりしていたらしい。




青年期の
ドストエフスキー


家族の元を離れ、ペテルブルクの工兵学校に入学、そのまま中尉となって卒業。その後はしばらく軍関係の仕事をしていた。1年ほどで仕事を辞め、作家活動に。実家からの仕送りで生活する。

兄のミハエルとは大変仲が良く、頻繁にやりとりした手紙が残されている。2人とも熱狂的な文学青年だったらしく、内容は書物に関することがほとんどで、ドストエフスキーの読書遍歴がよくわかる。
気に入っていたのは、プーシキン、ホフマン、バルザック、シルレルなど。当時の人気作、レールモントフの「現代の英雄」(1840年)と、ゴーゴリの「外套」(1842年)にはかなり影響を受けたようだ。
紀元前の詩人・ホメーロスの「イーリヤス」を兄に薦めているような記述もある。




デビュー

1846年、「貧しき人々」で華々しくデビューした。デビュー前から、当時のロシア文壇にファンがいたくらいで、大変な注目を集めたようだ。
第二のゴーゴリ(リアリズムの作家)とまで称された。
しかし、デビュー作で大いなる注目を集めたにもかかわらず、その後は鳴かず飛ばずの状態が続いた。




死刑判決と
ドストエフスキー


一発屋で終わりかけたドストエフスキーだったが、作家や文化人とのつきあいは深いものがあり、弁舌がするどいことから自然と社会活動家とのつながりができていった。それが災いし、1849年、28歳のとき、国家転覆を謀る社会主義者たちが大量に逮捕された「ペトラシェフスキー事件」でその一味と見なされ、死刑判決を受ける。
死刑執行直前、皇帝の恩赦で命は救われたものの(死刑判決自体が国家の見せしめ的パフォーマンスだった)、その後8年ものシベリア流刑生活を強いられることになる。
この事件をきっかけにドストエフスキーは生まれ変わったと言われている。当時、兄に宛てた手紙にこう書いている。
「これからはもうくだらないものは書きません。ヘーゲルの哲学史を送ってください」




流刑中のドストエフスキー

シベリアの獄舎で4年過ごした後、こんどはシベリアの守備隊兵士としてさらに4年の兵役生活を送ることとなる。その間は、兄のミハエルから送られてくる書物をひたすら読みあさっていたらしい。歴史書や哲学書に混じってコーランまで読んだという。

無神論者だったはずのドストエフスキーは、この時期に、聖書とも真に向き合うことになるのだが、それについてはまた二部以降で書く。





































日本語訳本

岩波文庫は巻末の用語解説が詳しく、全体としてわかりやすくまとめてある。
新潮文庫はもっともポピュラーとされているが少し誤訳が多いという指摘もある。
光文社の古典新訳文庫は、現代語に極力近づけて訳してあるのと、不必要な修飾表現はバッサリ短くしてあって読みやすい。また、巻末のおまけで、作品の背景や地理的状況等を詳しく解説している。文庫本になったものとしては最後発。
江川卓氏(元ジャイアンツの人と同姓同名なだけ)、亀山郁夫氏のものが現代口語に近いので読みやすいと思う。


初めて読む人には
この本がオススメ



第二部に続く
(2010.01.26/はやししょうじ)



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